昭和47年03月24日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受け初めである。みんなも、そのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 ここに参っておる人々がみな神の氏子じゃと。から、神の分身としての表現でしょうね。皆、神の氏子じゃと。大天地に対する小天地、大天地の具えておる全ての者を、小天地の人間は備えておると言われます。大神霊に対する小神霊と言うことでしょう。だからここでは、そういう意味での人間は神の氏子じゃと、神の子じゃという、そういう表現と、此方がおかげの受け初めであると。ね、生神とはここに神が生まれると云うことであってという二つの面の神様を表現しておられるように思えますね。
 人間はみな神の氏子じゃと。確かにそれは事実です。事実だと私は信じます。所がそんなら神の氏子だからと云うて、神様の働きを表わす事は出来ませんね。生まれてこの世に生を受けて、ね、神様の所謂分け霊と思われる魂を頂いて、この世に生まれて参りますけれども、その魂が何時の間にか変わりはててくる。ね、我情そして我欲。ね、ありとあらゆる神様にはふさわしくない、似ても似つかわしくない所の心と云うものが、その心の中にだんだんふさくしてくる。
 人間は万物の霊長だと云われながら、それは形だけの事であって、心は似ても似つかぬそれこそ牛、馬にもおとりはてた様な人間がどれくらい沢山おるか分かりません。もうそれこそ鬼畜にも等しい。ね、そういう例えば状態というものがです、ね、何時の間にかそんな事になつて来る。いわゆる天地の大恩も分からずね。恩を受けておっても謀弱な生活。ね、もう忘れたほどのような生活。天地の御恩恵なしにはそれこそー分間だつて生きておることすら許されない程しの大恩恵を被りながら。
 それに対して神恩報謝の生活もしない。ただ我情である、我欲である。そういう我情我欲が何時の間にか、人間のいわゆる本質というものが失われてくる。神の氏子じゃと仰せられる、その神の氏子としての本質が光を失なつてしまう。そして、しまいには、いわば人間の面しとるだけ。心は鬼畜にも等しい。犬猫にも劣り果てたということにまでなって来るわけです。性が変わつて来るわけです。
 私は思うんですけど、例えば、タオルならが、タオルが汚れたまま、もうまっ黒に湿った様に、まではいいけれども、それがだんだんその汚れによっですね、その布の本質であるところの物がなくなって性が変つてしまう。あら、この布はもう性の変わってしもうとるたい、ビリビリ破れるごつなって。性が変わるからです。ね、人間でもそうです。ね、人間が人間を平気で殺したりするようになる。 これはもう鬼畜にも等しいじゃないですか。ね、形で殺すだけではない。心で殺す。心で傷つける。
 人間の風上にもおけない人間が、いわば世界中を占めておる。これから世界真の平和になろうなどということは思いもかけられませんでrすね。ほんな姿形だけね人間の面しとるだけばい、あんな奴はと云うでしょう。そりゃもう心は恐ろしかち、もう鬼のごたる、蛇のごたる。浅ましい限りじゃというふうに申しますように、そのように変つて来る。そういう面の神を、ここではいっておられて、次に此方がおかげの受け初めと云う所からね、此方の事を生神、生神、神、神、というけれども。
 皆んなもそのようなおかげを受けられると、例えば性の変わり果てた様な人間でもです、ひとたび自分の心が信心に向いて、ね、ああ相すまん生活であったと、ね、例えば現在50なら50の人が、ね、そういう生活からなら信心の生活に入ると致しましょうか。50年間を振り返って見て誠に相すまん50年であったと、知らぬ事とはいいながら、こういう信心の世界を知らなかったと云う事が、ね、悔やまれる様なおかげを頂いて、そこから、いわゆる生神への精進、ね、本質人間の本質が神様である。
 その神様を取り戻そうとする。そこで今まで付いてきた所の心の垢とでも申しましょうか。ね、それを取り払うて行くと言う事が、改まると言う事であります。改まった生活に入って行くのです。そして我情を言わんでも我欲を言わんでも、この様に恵まれる世界があるんだという事をね、知らないとやっぱり我情、我欲をいわんと、もうそれこそ正直ものがバカをみるといったような結果になろうごたる気がする。
 それは信心の無い者の思い方であって、ね、信心にならせて頂いて我情が取れてくる、我欲が取れて参りますとです、そこには、ね、御恩恵に浴しておると言う事も分かると同時にです、その御恩恵をいやがうえにもです、いうなら必要なら必要なものがです、恵まれ与えられる世界があるんだと。摂取の生活から与える生活に変わって来る。与えても与えても与えきれない程しの。そういう生き方があり、そういう世界があることを教祖金光大神は、その後の神において、言つておられます。
 此方がそういうおかげの受け初めであると仰つしゃつておられます。私のことを生神様のように、生神様、生神様と言うけれども生神様と言うのはね、私共が、ね、信心の無いときに神様とは大体どげな顔してござるじゃろうか、どげなふうしてござるじゃろうか。椛目のあの力君が小学一年生の時にだい、大神様という題で作文を書いた。それが大亀様ち書いた。大亀、亀様、神様を亀様、亀、大亀様、何の事じゃろうかと思いよったら、天地の親神様の事だち。
 大亀様、それが西日本新聞のあれに掲載されました。ね、まあ実に私は、あれをまだ取っとりますけれども、まだ、その小さい子供が感じる神様ですね。して最後の僕もの大亀様になりたいなち書いてある。大体、亀様て何を食べてるのだろうかと、まずそういう不審を持っとりますね。どういう顔をしてるだろうかと、親先生のような顔をしてるかな、というようなことを書いているね。ね、神様ちゃいつたいどう言う様なお方だろうか。ね、人間が例えばここに教祖が仰っておられる。
 此方のことを神、神というがとこう仰る。本当に神様と申し上げなければおられない程しの働きを、表わして下さるからなのです。貴方のおかげで命が助かった、というならばです、もうその一人の神です。ね、私は貴方のおかげで命が助かったというなら、ね、私のためにはもう貴方は神様だとこう言うわけです。それを教祖は、ね、生神とはここに神が生まれると言う事であつてと言つておられます。
 素晴らしい表現ですね。生神様と言うのは、白髪を生やして、そしてこうか霞か食べてござると言った様な事では無くて、ね、生身を持っておる、私共のこの姿の中にです、しかも日々刻々、ね、ここにね、生神とはここに神が生まれるという事であってという私は金光様の信心の信心を短的にいうたらですね、もう日々を刻々生神様を生みなして行く生活だと思いますね。生神とはここに神が生まれるという事であって。いわゆる生神の誕生である。自分で自分の心の中に、ね、自分の心に合掌したいほどしの心。
 そういう時には所謂、神の誕生を見たわけである。しかもそれが刻々である。そこにいわゆるここに教祖が仰っておられる、人間誰しもが神の子であるとしての頂き方。ところが只今申します様に、似ても似つかぬ、いわば人間の風上にも置けない様な心の状態に変わり果ててしもうて、ね、そして我情我欲を言わなければ、この世はもう生活できない様に思う。正直なこつどんしよるとバカを見ると言う様なのが世の中だというふうに、勘違いしておる人達が沢山ある。
 我情を離れ、我欲を離れた時に初めて我が身は神徳の中に生かされてあるんだなぁ、神様のご恩恵の中にあるんだなぁ、なるほど神の懐の中にあるんだなぁということが分かる。乳飲み子が母親の乳房を求めて、与えられる様に、そこに与えられるいわば生活、神様のおかげでという生活が始まれるのが信心生活。あれも神様のおかげ、これも神様のおかげ、神様のおかげで立ち行きますという生活が生まれる。だから自ずと有り難いという心、いわゆる神恩の心。ね。
 神恩に対して報謝奉まつらなければおらない心。日々が奉仕生活になって来るのであります。だから自然ね、奉仕の生活ですから実意を欠いては相すまん。ね、丁寧を欠いては奉仕にならんという事になるのであります。まあ簡単にいや、それだけの事ですけれど、そこが難しい。ね、実際いうたら。ね、私共がです本当にその生神を目指すというか、ね、日々刻々生神を生みなして行く生活と言った様なものが少しずつ身に付いてきたらです、ね、それ楽しい事であり有り難い事であると同時にです。
 そういう生き方をなして頂きよる時、必ず自分の心の中に生神には、ふさわしくない心に行き当たるんです。ね、それがめぐりであります。人間のいうなら業であります。そして本当に自分で自分の心を見ながらです、もう辟易する様な心が、に直面する。信心のない間、信心の薄い間それに気が付かなかった。こんくらいな心は、人間じゃけんもう当たり前のよう思うとておった。
 ところが生神を目指すというような生き方にならして頂いたら、自分の心の中に、それこそ生神には似ても似つかわしくない、こういう心があったんじゃ、なるほどおかげを受けられんはずだなぁというような、いうなら、浅ましい心に直面する。それを私はめぐりに直面するんだと、めぐりに出会うんだと思うです。金光様の信心で私は一番素晴らしいと思うのはね、私共例えば、ほんなら凡夫の私共でもです生神を目指されるというところだと思うですね。
 こういう教えこういう説き方をした宗教は、もう前代未聞です。もう神様と人間というものは、もうこんなに天地ほどかけ離れたものとして説いておりますね。それでも此方がそのおかげの受け初めであって、皆も、この様なおかげが受けられるんだと、教祖は説かれた。一無学の百姓ではある教祖の神様がです、実意丁寧神信心の生活を貫き給うてから、ご自身の心の中に、生神の誕生を感じられ、日々が有り難うして有り難うしてという生活に入られた。
 しかも皆もこの様におかげを受けられるぞと教えられた。私共がそこをどこまで行かして頂くかと云う事です、ね、精進いかんによる事でございますけれども、ー生涯そのことを目標として焦点においての信心のいわゆる稽古と言う事になるんじゃないでしょうかね。金光様の御信心とは。ね、それこそ有り難い限り、嬉しい限り。でそう言う例えばー心発起させてもらって、所謂、心が神に向かうて行くという、そういう信心をさして頂いておるうちに向かっておるうちにです。
 そこに気付かせて頂くのが、銘々のもっておる所の巡りである。所謂仏教的にいうなら業である。ね、それを人間の性だと言うてしまえば、もうそれまでだと。ね、それに取り組ませて頂くと言う所から、そこの突破させて貰う所からです、私は本格的生神への精進があると思うですね。人間のさがの悲しさとその性の悲しさと言うのではなくてです、ね、その性の有り難さ、喜ばしさというものをです、感じれれる程しの所まで私は極めて行くべきだと思うんですね。
 私は今日ね、御神前に出らせて頂きましたら、もうそれこそ偉大な何というでしょうかね。妙來様ていうですかね、妙來様を横からこう拝むんですよね。わあー見事な妙來様なんですけれどもね、暗いところに暗いふうにして見えるから、もうまつ黒なんですよ。それがこう斜めから拝む、そしたらね、その周囲にローソクのような明かりが、すっとこう点じられていった。そしたらその光に輝きされたその仏様の慈顔あふれるばかりの、そのお顔の美しさ、尊さ、神々しいまでにですね。
 その光によつてこう光出される所のを御心眼に頂いたんです。有り難いなんちゅこつちゃろうかと、思いよりました。ね、所謂私共がです、神を??今日のここんところの御理解でしたけれども、ね、私共が、ね、生神とはここに神が生まれる事であってと言うように神を生みなして行くと言うこと。そういう光がね、点じられる時にです、初めて天地の親神様を、お表わし申し上げることが出来ると言うこと。と私は今日頂いた。ははあ、いかに天地の親神様だと言うて神様御自身としてはどうにも出来ない。
 そこに氏子あっての神、神あっての氏子、仰っしゃるように神様と氏子とが一つになる。あいよかけよでです、ね、私共が神様の御表わし申し上げれる信心にならなければいけない。いうなら、ただ神様を表わす、神様を表わすと言うても私共一人一人が、そのひとつの光にならなければその真っ黒い、なんじゃ分らんようなその如来様がです、一つ一つ光が増えるに従って、その神様がです。
 愈々慈顔あふれるばかりの仏様に光り出されてみえられた様に、人間氏子が真におかげを受けて、自分の心の中に新たな心、拝みたいような心をもってです、その天地の親神様を御表わし申し上げると言うことが人間の務めであるとまで、私は感じなければ、金光様の御信心は本当じゃないと思うですね。だから神様をお表わし申し上げる生活なんだ。金光様の信心とは。ただ自分が、おかげを頂く事じゃない。
 自分がおかげを、おかげを頂くと言うことは私がおかげを頂くと言う事が、はあ、成程神様じゃなぁと、人から言われるような、思われる様な、おかげを表わして行くと言う事なんです。そこでです、私は本当にそういう神様を、御表わし申し上げると言うほどしの光になりたい為には、どういう信心をさして頂いたら良かろうかと、ここへ伺つてから考えさして頂きましたら、これはもう確かに十五年か、十何年も前に頂いた御理解なんですけれども、こんな事を頂いたんです。
 まずあそこに、あの数字の5という字を書いてごらんなさい。数字の5、ね、ちょつと5という字ですから、こういうふうに書いてみると、数字の5ですよ、それにね、下に、この中に1の字、こうやって一の字をこうやって、数字の5を書いてここに一の字をこう書いてごらんなさい。これは与えると言う字を、崩した字なんです。与える、ね、与という字、ね、これは与市の与ですね。与えるという字。その数字の5を頂いて、一と言う字はどういうことになるかと言うとあれは引くということですよね。
 マイナスという事なんですよね。引くとか足すとかいうでしょう。そこでです、ね、私共が本当に神様を表わす程しの光になる為にはね、その5を引かなければいけんのです。そすとそれが与えると云うことになる。ね、5を引くと云うことはです、私共の、いわるゆる業、ごうと云うのは業と書いて有りますよ、あの業、例えば酒造業とかね、業、ね、ごうが深いとこういうでしょう。それをお道の信心ではめぐりが深いとこう云うわけです。そのめぐりを引くという事。
 巡りが無くなると云うこと。ね、本当の光と云うものはね、その巡りのお取り払いを頂いた後なんです。人間が。その巡りのお取り払いを頂いておる間が修業なのです。あくが抜けておる時です。いうなら私共が、生神を目指さして頂いておるうちにです、直面すると云うその業の深さに直面にして ? 辟易するように有る。自分というが浅ましい見えてくるわけです。ね、けれども屈せず、その自分の業に向かってです、ね、そのめぐりのお取り払いの為に業を引くことの為に精進する。
 もうそこにはね、すっきりとした光が有る、与えられる。ね、そういう光がです、ね、今日、私御神願に出て頂いたように、その妙來様の周囲に赤々赤と光が燃えて来る。そこにお釈迦様、お釈迦様じゃない、妙來様、妙來様のお姿がパーツと浮き彫りされたように、神々しい迄に現れてきなさる。人間氏子が表わさなければ、表わすものは有りません。神様が現れようとなさっても、神様ではどうにもお出来にならないわけです。私共が実際おかげを受けて、お徳を受けて力を受けて、ね。
 光を受けて初めて神様が世に表われなさる訳です。そんためには、どうでも私共がです、ね、和賀心が神に向かう程しの信心をさして頂いて、それはみやすい事とは思われないけれども、我と我が心を拝めるようになつて来るその心の上に頂く有り難さというものを持ってです、ね、そこに直面する所の業に行き当たる。ね、そこにです、これはもう人間だから当たり前だと、これは人間のサガだと云うたらそれまでなんです。ね、神様にならにゃん、人間でちゃつまらん。
 そこでです、それは、大変に難儀なことであり苦しいことであるけれども、例えば、お酒ならお酒が好きな人がです、お酒を飲んじゃ神様になれん。タバコの好きな人が、タバコを飲んじゃ神様になりにくい、と例えばですよ、言われたときに、そんならタバコをやめようということですら実をいうたら難しいでしょう。、好きな人に酒を止めよと言うことは実に難しい事なんです。
 それが自分の心の上にです、ね、これでは、おかげを受けられん、これではおかげの心が邪魔になる、というような心をです、取り除くという事は、見やすいこととは思われませんけれども、それを取り除かして頂く程しの勇猛心が、なからなければ、本当の力にも徳にも光にもならないと云う事。でなかつたら本当の神様を御表わし申し上げるということは出来ないと云うこと。
 そういう大変な事に私共が取り組んでいるということがね、私は金光様の御信心だと思うんですよ。だから、あの人が人間が二人見るようになったと、言われるのは、そうなんです。金光様の信心さして頂きよって、信心なしよるばつてん、ろくなやつじゃねと言われるようなことでは、だから出来んという事です。もうあの人ばかりはもう合楽に、お参るごつなんなさったらもうほんに、二人見るごっなんなさったと。ね。
 しかも限りなく、そういう精進を続けて行くという事が、ね、此方がねおかげの受け初め、教祖金光神という方は、そういう私は、おかげを受けてこられた方だとこう思うです。その教祖金光大神の、いわゆる生きられ方というものは、だからそこで問題になつて来るわけであります。その生きられ方、その御魂というか、ね、その、魂の歩まれた後、歩みの後を辿らせて頂くのが金光教の信心だと云うことにもなるのです。
 中々形のまねは出けんでもです、その心の真似事でもさして頂くというね、御教えの神様なら、こういう時どう思われるだろうか、どうされるであろうかと、教祖様の御思われ方というものをです、自分の心の中に日々頂いて精進さして頂いていく事がです、とりもなおさず我が心が神に向こうて行くのであり、生神とは、ここに神が生まれるという事ね、生神の誕生をそこから見ることが出来ると思うのであります。
   どうぞ。